雨が降っている。とても弱いが、長いこと降り続いている

薄暗い路地の一角に、にぎやかな声が漏れ聞こえるバーがあった。

黒猫をモチーフに取り入れた看板には「FIGARO」の文字。


窓から漏れ出す灯りは、闇夜を照らす道しるべのようだ。

カランカラン。カウベルを鳴らして、ドアが開く。

同時に耳に飛び込んでくるのは、男も女も関係無く楽しそうにはしゃぐ大声。

「おい、あれ見ろよ」
「なまっ白い顔して、情けねえ。女か?」
「こんな時間にか女一人でこの店に来るって思うんなら、お前飲み過ぎなんじゃねえかなあ。馬鹿だなあ」
「ちょいとあんたたち、そんな事よりもっと酒持ってきなさいよ!」

飛び交う陽気な叫び声に混じって、新参の訪問者に対する疑いの声も上がる。


訪問者は、丸く赤い瞳を誰とも合わせないように伏せて一直線にカウンター席に向かった。

黒髪も陰気に顔の縁を覆っている。

客たちはと言うと、訪問者の事を大変に気にしながらもまるで何事も無いように大騒ぎを続けていた。


「FIGARO」の店主――キビキビとした雰囲気の若い(ように見える)女性――は訝しげに訪問者に問いかける。

「あなた、ずぶ濡れじゃない!どこから来たの?」

ゆっくりと上げられた顔は、明らかにまだ少年のそれであった。

この肌寒さのせいだろう、身体全体が弱弱しく震えている。口を開こうとはしない。

「訳アリ、ですかねえ?」

カウンターに座った少女と見紛う女性が口を挟む。穏やかな性格が口調に滲み出ていた。

少年はそちらををちらりと見るが、相変わらず口を閉ざしたままだ。

周囲では、一つ会話が終わり、また一つ会話が終わり、今やほぼ全員が沈黙して新参者の一挙一動に注目している。

その好奇の視線に気付いた店主は、冷徹に告げた。

「あんた達、お喋りが済んだって事はつまり、おうちへ帰るお時間ね?」


***


ある者は女でありながら魔王然とした店主の迫力に恐れ慄き、ある者は渋々といった様子でFIGAROを追い出され、店内は先程までの喧騒が嘘のように静まり返っていた。

残されたのは、店主と先程少年を気遣った穏やかな女性、そして少年の三人である。

「ええと、お腹空いてる?……ま、どちらにせよ食べときなさい」

そう言って少年の前に出されたのは温かなミルクココアと琥珀色のシロップがかけられたパンケーキ。

甘いココアの香りときらきら輝くシロップに、さしもの無表情な少年も目を見開いた。

「食べちゃって良いんですよ。猫さんの料理は何でも美味しいんですから」

「何がどうなってるのかは分からないけど、寄ってくれた人にはおもてなしすべきだと思うの。あ、苦手だったら何か作り直すわよ」

今まで全く無反応だった少年が、とうとう一度こくりと頷いて出された物を食べ始めた。

「……ごちそうさま」

少年は初めて言葉を発した。呟くように、だが、刺々しさは無い静かな声。

猫と呼ばれた店主と女性は顔を見合わせて笑う。

「どういたしまして。……ええっとね、話したくなければ構わないんだけど……」

言葉を濁す店主に、少年は首を横に振る。

「話します。ケーキとココア、ありがとう。」

猫は「いいのよ」微笑んだ。

「僕、生まれたのはアシハラの山奥。『鳥遣り』って知ってる?」



少年の話はこうだった。


アシハラの山奥で生まれた少年、クロウは鳥を使役し狩りをする一族の一員。

家族や鳥たち、鳥遣りの仲間と共に山中で静かに暮らしていた。

クロウ自身はその名の通り烏を使い、一族からは「鴉」と呼ばれていたらしい。彼のパートナーは烏のキング。烏の中でも相当の大型で、狩りの大きな戦力でもあった。

穏やかな暮らしに終止符が打たれたのは、数週間前のことだ。

外界との交流はほとんど無かった為、その理由は鴉には分からない。

確かなのは、村が襲撃され焼かれたこと。

火に巻かれ、銃声が響く中を必死で逃げ延びた鴉は、逃げ道の途中で体力の限界か精神力の限界か、倒れてしまったようだ。



彼が目を覚ますとそこは少々狭い部屋の中であった。倒れてから何日経ったかは分からない。

「目が覚めた?良かった、やっぱり生きてたんだね!」

無邪気な声の方に顔を向けると、金髪が肩程まで伸びた青年……恐らく青年がはしゃいでいた。

「君、道に倒れてたでしょ?他の部隊は君の事もう死んでるって思って放ってたんだけど、うちの隊長が見たらまだ生きてたみたいでさ、とりあえず連れてきたって訳」

家族も鳥たちもキングも、逃げ切った姿は見えなかった。心配で居てもたってもいられない鴉だったが、そっと体をベットに押し戻された。

青年は大きく溜息を吐いた。

「君を家に届けたいのは山々なんだけど、簡単に言えば無理なんだよね。ここ、海の上だから」


島国アシハラの国から他国へ移動するには、船旅が不可欠である。

青年曰く、彼らの上司(隊長と言っていた)は彼を拾ってすぐ、猫たちの居る国(つまり、現在鴉が居る国)エディンバルまで出張の必要があったらしい。

「なにも、僕を連れてこなくても、医者に預けるだとか……」

「いや、何でもかんでも目の届くところに置いておきたいのがうちの隊長なんだ。困った人だよねー。

 それに、真面目な話をするなら、どうやら君は結構複雑な立場らしくて……」

僕も良くは分からないんだけど……と申し訳なさそうに言う青年に、文句など言えるはずもない。

「あの、あなたもしかして、ずっとここに?」

看病してくれていたのだろうか、と思い聞くと、「あはは、まさか!」と陽気に否定をした。

どうやら上司に付き添って船旅をしているのは三名。彼らが交代して看病をしていたらしい。

いずれにせよ、見ず知らずの拾い物に対して随分と親切な人たちだ。

「実はねー、隊長も看病してたんだよ。持ってきた書類全部書き終わって暇だったんだって。あれね、嘘なんだよ。

 いつもはギリギリまでやらないのに、君の面倒見る為に早く終わらせたの。馬鹿優しいよね!ていうか出来るなら普段からやってくれればいいのにね」

「愚痴ですよね、それ」

「うん、愚痴」


……



「で、色々とお話しながらこの国に来たんです」

猫は呆れた顔で天井を仰いだ。

「……それ、多分知り合いだわ……。まだこの国に?」

「あ、あの、分からないんです……」

「分からない?どうして?」

猫と女性はきょとんとした顔で鴉を見た。



……


結局、青年や看病をしてくれた二人と顔を合わせ、他愛も無い話をしながらエディンバルに到着した。

少々口が悪い小男と、明らかに男性だが口調と動きは女性らしい痩身の男が青年の仲間らしい。

村の襲撃や鴉自身について触れなかったのは、彼らなりに気を遣っての事だろう。

最終的に一度も顔を見せなかった隊長とやらは、三人の部下曰く「ツンデレ」らしい。

ともかく、エディンバルのとある宿屋までは彼らと行動を共にしていたのである。



静かな夜のことだった。時々窓越しに酔っ払いの笑い声が通り過ぎていった事くらいが印象に残っている。

金髪の青年(初めに鴉が出会った青年だ)と同じ部屋をあてがわれていたが、彼は所用で街に出ていた。

そこからの急展開は、まさに「嵐のよう」。

突然、鍵を掛けてあったはずの部屋の扉が開いて数人が急に飛び込んできたのだ。

「アロー、右腕君よ!!元気してた!?せっかくエディンバルまで遊びに来たからご挨拶に来ました!」

陽気な大声を発したのはラフな格好をした若者であった。黒髪が目元を覆い隠していて真の表情は読めないが、口元はとにかくニヤニヤと笑みを浮かべている。

一通り部屋の中を見回したところで、鴉の存在に気付いた。

「おや?親愛なる隊長殿の右腕はおらず、妙齢の美少年がおられる。ふむ。連れ帰っちゃおう」

クロウが困惑しているうちに、闖入者の脇に居た大男がクロウを担いでしまった。

「俺は金髪に怒られても責任取らねえぞ」

大男は苦労人らしく先に釘を刺した。その隣で華奢で派手な格好(ピエロのようだ)をした小柄な女性も深く頷いている。

そして、すまねえな、と鴉に謝罪した。もちろん解放はしてくれない。

「金髪というのは僕の配下と隊長の配下どちらのことかな。まあどっちでもいいや、どっちも怖いし」

先程までの芝居掛かった口調とは打って変わって投げやりな言い方である。


その時である。突然、ピエロ風の女性が何ものかを素早く廊下に投げた。

白い煙が廊下から部屋に流れ込んでくる。と同時に、廊下から男が咳き込む声がした。

「ワァ!隊長殿はもう縄をほどいたんだね!うたた寝してたのは頂けないけどその縄抜けはサーカスでも通用するよ、さあ逃げよう」

「こっちには一応人質がいるからな!撃つなよ!俺のせいじゃないぞ!」

大男は言い訳なのか脅し文句なのか分からないものを叫ぶ。

すると、怒鳴り声が返ってきた。

「分かってる!!ともかく傷付けるな!この馬鹿暇人どもが!!」

その他にも何か罵詈雑言のようなものが聞こえたが、正確には聞き取れなかった。

こうして、鴉は誘拐されることになるのだが、結局ものの数時間で解放された。

曰く、「もう人質いなくても逃げられるからね」だとか。

……


「違うと良いんだけど、もしかしたらそれも知り合いかも。なんか……ごめんなさい」

頭を抱えた猫は、ともかく鴉に謝った。

もう一人の女性はと言うと、

「猫さんって人脈すごいですね」

と感心している。

「それで、全然知らない土地で帰り道も分からないし、アシハラに帰る事も出来ないし、彷徨ってた」

「どれくらい?」

「……分からない。多分、一週間くらい……。その、僕」

猫はじっと鴉の目を見つめた。

「生きてるってことは、盗み位はやっちゃってるわね?お金持ってないんじゃない?」

「ごめんなさい……」

「生きてて、しかも罪悪感があるだけまだまだマシ。それでうちに?それならもっとご飯作るわ。待ってて頂戴」

猫は料理道具を取り出した。鴉はカウンター越しにそれを見て眉をハの字に下げる。

「あの、いい匂いがして、暖かそうで、気付いたら入っちゃってて……ごめんなさい、お店の邪魔しちゃって」

女性は穏やかに笑みを浮かべた。

「いいんですよ。猫さん人の面倒見るのが大好きなんですから!あなたの他にも、もう一人困った方が居るんですけどね……」

言いかけた所で、カウベルが鳴った。

全員がそちらを注視する。


「な、なんだよ。ん?もう店終いしたのか。ていうかそれ誰」

きょとん、とした顔に猫と女性は爆笑をし、鴉はぺこりと頭を下げた。



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