「それで、ここに来たって訳か」

猫の作った湯気の立つ料理をつつきながら青年が言った。

曰く、ここFIGAROの下宿人兼猫の仕事上のパートナーらしい。通り名は「豹」だとか。

恐らくこの国でも珍しい青毛が大きくカールしており、やや吊り目の瞳は琥珀色。その目が目の前の野菜炒めから鴉に移った。


「鴉、だっけ。お前、行く当てはあるのか?」

鴉は無言で首を振る。エディンバルへ来た事も、さらに言うなら今ここに居る事も成り行き任せである。

まして、この国で、行くべき所などあるはずもない。

行儀悪く片肘をついて口を動かす青年の頭を猫がはたき、鴉に向かってにっこりと笑った。

「良かったら、しばらくうちに泊まっていかない?部屋も空いてるし」

「え」

鴉としても、出来るならこの国で一度落ち着く場所が欲しかった。願ってもない申し出だ。

だが、家賃も食事代も払えそうに無い。

その上、正式な手続きを経てこの国に入ったという記憶は無い。下手をすれば、猫や豹に迷惑が及ぶことになるのではないか。


悩む鴉を、猫と豹は頭上にハテナマークを飛ばしながら眺めている。何か、悩むことがあるのかしらん?といった様子だ。

この店で最初に鴉に話し掛けた女性(名前はシープと言うらしい。絹糸のようなブロンドの髪と優しげな青緑の瞳を持っている)は、その様子に微笑みながら助言を加えた。

「お二方、鴉君はきっと、お金やパスが無い事を気にしてるんですよ」

そう聞くと、猫と豹はようやく合点がいったらしい。

「気にすんな!俺も家賃なんか払ってねえんだ」

「構わないのよ。空いてる部屋を有効活用してもらおうってだけなんだから。ご飯もまかないで良ければ余った食材で出してあげられるし」

何とも気前の良い店主である。

「でも、僕、入国手続きが……」

「良い事教えてあげようか」

ズイ、と顔を寄せた猫は、いたずら好きの子供の様にニイッと笑って言った。


「私たちは、法律の外に居るの」


一瞬、鴉の思考が止まった。彼女が何を言っているのか全く理解不能だったからだ。

豹は鴉の隣で「お前、何でコイツに……」と頭を抱え、シープは我関せずとそっぽを向いている。

鴉以外の三人は、何か共通の「秘密」があるようだ。鴉の心の中に、むくり、と好奇心の芽が起き上がった。

さも何事も無いように右手を差し出して言葉を吐く。心中はある種の心地良い胸騒ぎに満たされていたのだが。

「じゃあ、大丈夫だね。しばらくお世話になっても良いですか?」

猫は右手を差出して意を示し、豹は頭を抱えたままで「よろしくな」と告げた。


******


「ここがあなたの部屋。鍵は掛からないけど、まあ家賃タダなんてそんなもんよ」

「大丈夫、ありがとう」

鴉が通された部屋は、物置代わりとしてすら使用されていなかったらしく中々整頓されており、パイプのベッドと机とランプだけが置かれた、

まさに最低限の部屋であった。だが、人ひとりが住むには十分だ。

今晩はもう遅いから、と言われ彼らの「秘密」を詳しく探る事は出来なかった。だが、猫の「また明日ね」に込められた含みは一応見抜けたと思っている。

今夜中に、どうやら鴉に「秘密」を明かす事に反対しそうな豹を丸め込むつもりだろう。


鴉は、疲れた体を久々にベッドに転がした。泥の様に疲れ切っている。

独りになって嫌でも思い出すのは、数奇なここまでの旅路だ。

怒涛の展開には鴉自身驚くばかりである。

故郷が襲撃され、何らかの組織に保護され、この国に到着し、何らかの組織に拉致され解放された。

思い起こせばその中に悪人は居なかった様に思える。保護した組織は鴉を手当し、拉致した組織は無責任と言えばそれまでだが人質をすぐに解放している。

悪人は居なかったのだが、結果として何とも後味の良くない旅路となってしまった。原因は解放されたその後である。

その放浪はほとんど記憶に無い。無我夢中だ。ぼんやりと思い出せるのは、道端のパンの屋台や店先の野菜を見たこと、必死で逃げている呼吸音。

怒声に怯みながらも追いつかれたら殺されると思う、極限の重圧。

そんな鴉を救ったのは、夜の闇の中、灯台の様に自分を導くFIGAROの灯り。

ギシリ、と鳴くベッドの上で、鴉は故郷を思って目に涙を浮かべた。何故、自分達が引き裂かれねばならなかったのか。

誰の邪魔もせず、誰に邪魔されることも無かった穏やかな暮らしは、もう戻らないかもしれない。

家族は元気でいるだろうか。そうであれば、自分の無事を伝えたいのだが。

だが、その一方でアシハラと連絡が繋がる状況を恐れる自分もいた。家族が全員無事でいるという確証は無い。知らない方が幸せな現実がそこにあったら。

青く淀んだ空気の中で、泥沼に嵌ってただ死を待つ人のようにじっと横たわっていた。







130405